青い花 第8話~第11話(終)
従姉に裏切られ、先輩に裏切られ、いつまでも幸せをつかめないでいたふみが、近すぎて気付けなかったあきらとの絆を再発見する物語だった、と一言では言えるけど、なんだろうなあ、この感慨深さ。花嫁(=幸せ)になりたい恭己と、(絶対に報われないことは承知の上で、苦難を引き受けてでも)恭己を好く、ふみ、京子。強引にリベラリズムと関連させて話すこともできるだろうけど、それはなぜかしたくないなあ。恭己の圧倒的な正しさを、しかし正しいと受け入れられないこの葛藤。それを恭己も感じていたからこそ、「それが普通だと思います。私も、これが他人の話なら驚いたと思うんです」、だったわけだ。 また星空のシーンがあった。第9話だったかな。彼女らが星空を見てこぼす「綺麗」という感想を、そっくりそのまま、掛け値なしに信じることが出来るアニメという表現の媒体自体の幸福さ。「キャラクター表現」と「お芝居」の間にあるものはこれじゃないか。自立するキャラクターと、演じられる登場人物の違いというものは、本人の見るものと観客の見るものが同じものか否か、というところにあるんじゃないか。「カメラ」という中間項を挟まない、そっくりそのまま画面に映る景色を、見られるかどうか、ということじゃないか。 ふみがあきらに本心を打ち明けた瞬間に問題が解決していくこの展開は、まさしく二人の関係性を強調するものだった。第8話、杉本家から帰宅するふみに対し、公理が「次の信号でどっち?」と聞いたのに、硬直したまま先輩の話から戻ってこないふみを放置して、次のシーンへとカットは切られる。この時点で、シーンとシーンとしては切断が行われているものの、ふみの心情としては何も変わっていないことが明らかになる。ふみが先輩に振られたことを自分で消化するには、あーちゃんの手をつなぎ、「振られちゃったの」と告白することが必要だった。 演劇部の台本の、表紙に書かれた「2003」の文字について。薄れ行く記憶を駆け足で、坂道を下る江ノ電の速度で早送りにした最終話は、まさに「今」を置き去りにし続けることでその先を描く物語だった。その中に、唐突に現れた「2003」が、この最終話は、視聴者にとっても置き去りにし続けた今、即ち「恋を恥ずかしがらずに出来る、今」の憧憬を表しているのだ、と言っているように見えてならない。置き去りにしてきたものは、もう取り戻せないけれど、小学校の中庭で、本当の初恋を思い出したふみのように、その日の足跡を辿ることで、あの日感じた「今」の想いをもう一度見つけ出すことは、きっと出来ない事じゃない。
大正野球娘。 第10話~第12話
いろいろ未解決のままで、そのあたりには全く深入りもせず、第1話で見せた家父長制についての切り込みや、その他諸々の諸問題については一切触れないまま、終わった。この「深入りしない姿勢」は、「サマーウォーズ」と並び、山本寛が「アニメの古典化」と呼ぶ同時代性を象徴するものであると考えられ、ウェルメイドで新奇性のない、従ってきわめて口当たりのいい作品に仕上がっていた。 書くことは特にありません。 嫌味でもなんでもなく、この作品に対してかけられうる最高の賛辞はこの一言ではないかと思う。
懺・さよなら絶望先生 第10話~第13話
はっきり言って退屈なシリーズだった。この退屈さの元凶がいったいなんなのかについて考えをめぐらせることこそは他者とコミュニケーションを図ることと相似形を成すだのなんだの メタ化物語、メタネギま!、メタひだまりスケッチ、メタ夏のあらし!として機能し続けた本作をそれらの作品と切り離して評価することはできまい。放送期間中、逼迫した制作現場の状況が手に取るようにわかるライブ・メディアとしての性質を備えた「懺」は、作品内容のうちに面白さをはらまずとも、その性質からしてネタ的な消費を可能にし、「シャフト」という会社そのものがエンターテイメントとして消費される、ある種異様な環境を作り出していた。
化物語 第11話~第12話
原作を読んでいると思わずニヤリとしてしまう演出ばかりだということに、いまさらながら原作を読み終えて気付いた。でも読んでいようがいまいがおそらく見ているだけでその視覚情報は「面白い」という感想を引き出すんだろうなあということも想像できる。まあ、だからどうしたって話だな。とりあえず羽川の一挙手一投足に胸キュンだった。「この作品で一番好きなキャラクターは?」って聞かれたら、俺は間髪入れずに「羽川翼」って答えるね。今まで堀江由衣の演じるキャラクターってあんまり好みじゃなかったけど、これは確変来た。 第12話のラストシーンからEDに続く流れの中で、アニメがアニメであるがための幸福を盛り込んだカットが見受けられる。 ビニールシートの上で仰向けになって寝転ぶ二人が見ているのは星空だ。本作ではたいへん珍しい、人物のバストショットで写されるこの数カット、カメラの存在を想定するととたんにつまらない画になってしまう。彼らの目線を追えば、撮影技術でいかにカバーしようと、仰向けになった彼らの見るものは星空でもなんでもなくカメラであることがわかる。カメラ目線で中空を見ていることが厳然たる事実としてその画面の外に写されてしまう。いくら「星空に感動している」と口で言おうとも、それがカメラという境界の向こう側でしかあり得ない感想だということが、カメラというものが存在する場合には、言えてしまう。 しかし、当然のことながらこれは絵であり虚構であり、カメラが「視聴者の世界」と「作中の世界」を分ける境界にはならず、したがって彼らの見ているものは星空である、と言うことができる。この12話を通じて彼らに宿った「人らしき意識」は、彼らが星空を見、そして感動している、という虚構の中の事実を私たちに感知させ、仰向けになった二人の語る星空の美しさを、掛け値なしに信じることができる。キャラクターの言葉を信じる/信じない判断が、キャラクターの言葉でなく、キャラクターの存立する世界に対する信任の度合いによってされること。これが、アニメが現実に対して負うリアリティレベル保証の軽さとも繋がり、「作品の世界観」という言葉の字義通りに、アニメに膨らみを持たせる一要因となっていること、すなわち「アニメがアニメであることの幸福」の表出となっているのではないか、と思う。
化物語 第9話~第10話
一度単なる手抜きに見えるとどうやっても手抜きにしか見えなくなってしまう。作品のみを見ていても、第10話は、アニメであることを放棄したような画面構成になっており、「アニメを作っている」という自負がありながら「しかしこれはアニメとして失敗している」ことを画面に鑑賞上の前提として示すそのやりかたは、少なくとも先に述べた立場をとり続ける限り、批判されるべきものだろう。俺だって、シャフトだ新房だと無批判に持ち上げたりはしないです。 が、これがアニメとして失敗していたとしても、一本のフィルムであり、24分弱の意味性を持った映像であることに変わりはなく、よって映像表現から何らかの深みへと到達することは、決して不可能ではないと思う。では、本題。 9話において繰り返される「黒駒」と「赤駒」。「黒駒」と、その周囲2カットにおいてキャラクターが述べるのは「常識的反応」であり、「赤駒」の周囲2カットにおいて流れるのは「現実のほつれとの対峙」だという対比が行われていることは、画面を見ている限り明らかなんだけど、第10話においてもその構造はそのまま生かされていて、ふつう映像を見ているときに視聴者が想定する、物語と画面の補完補完機能が完全に消失しているかのように見える第10話Bパートにおいて、辛うじてその機能を維持しているのはもはやアニメーションでもなんでもなく、ただ文字によって定式化された感情であること、すなわち「黒駒」と「赤駒」の対比構造が、物語(脚本)におけるキャラクターの動きや情動を描いたことについては、第9話で産み出した要素をギリギリの状況で生かした苦肉の策でもあり(評価すべき点でもなんでもなく、もう自分にはこれは単なる逃げの手法としか思えない。現在のシャフトと、任せられる下請けスタジオの総力を見誤った結果だ。2ラインなんて時期早尚だったんだ。大いに反省してもらいたい)、また同時に、これだけでも映像と物語は“関われてしまう”ことの象徴である気がしてならない。 いかに意味性を奪われた「映像としてある、ただそれだけの映像」だとしても、ほんの少しの意味、「Cinema」だとか「Film」だとか「無題」でもなんでもいいけど、とにかく「映像自体」であることをいくら求めてもそこには必ず言語が進入してきてしまうために何らかの意味を持ってしまう、そういう「『タイトル』の暴力的な強度」とでも呼べるものが、まあやってることはぜんぜん違うけど(そもそも第9話であれだけしつこく同様の手口を用いて表現し、恣意的に表現そのものに意味を獲得させてたんだから)、ここにあるのかなあ、と思った。歯切れ悪いですハイ。 あと羽川の「頭痛」だけがタイポグラフィの中で唯一版ズレを起こしていたところにまた面白い要素があったよね。今回を含めて3度続きますよ、っていうさ。
東京マグニチュード8.0 第11話
引越し作業のためにまた更新ができなかった。このアパートは地デジも安定して映るし、なによりMXが受信できるようになったから、来期は視聴可能な作品がどっと増える。よかった。 いまいちさっぱりとしない終わり方だったけど、この作品の終わり方はたぶんこれでよかったんだと思う。ある一人の少女が大地震に襲われ、その影響がほぼなくなるまでの、少女の人生におけるひとつの季節だけを切り取る、ただそれだけの作品であって、そうでしかなかった。 後日譚として、悠貴の遺志を継いだ未来が研究者を目指したり、起こりうるとされる大地震の被災地へボランティアに行ったりする様子が描かれなかったことは、もちろん未来がそのような行動を取った可能性は否定できないものの、それ以外の生き方も可能な、「未来の未来」の多様性を保証したという点で、そういう行動を取ったから奇麗事で終わっているとか、そうしなかったから大地震から未来は何も学んでいないとか、そういうことでは全くない、何か別の示唆を与えはしないかと思う。この作品が未来の人生に関与するのは、あくまで大地震にまつわる部分のみでであって、それ以外の未来の人生は、全て未来本人に託されている。大地震で彼女が失ったものは悠貴や友人の家族をはじめ数多くあれど、それらはどう足掻いても別の何かで穴埋めできるものではない。できるはずがない。また彼女が大地震から得たものというのも、実はない。クラスでの会話カットを見る限り、友達とは相変わらずそりをあわせる気がないようだし、たとえ今失われた一人の家族を結節点にして家族同士がまとまっていたとしても、それは常態化するにつれ見かけ上は希薄になるものだし(大地震以前と同じ状態に戻るわけだ)。ただそれは、成長していないんじゃなく、未来がまた別のことについて、たとえば先に挙げた「友達との上手な付き合い方を覚える」だとかその程度の小さなことでもいいから、彼女がこれから成長する可能性を彼女に対して保証していると考えていいんじゃないか、と思う。その積み重ねはいずれ、彼女が失ったものを越え、彼女の中での大きな資産になっていくんだと思う。 成長可能性・多様性の保証。本作のスタッフが未来に与えたのは(未来に対して守ったのは)、なによりもまず彼女の生き方そのものだった。
鋼の錬金術師(新) 第23話~第24話
ウィンリィってすげえ可愛いんだけど、まったくエロくないんだよね。一切の性的な具象が捨象されて、気のいい女主人的なところばかり見えている。女であるというメンタリティが作中で大変効果的に作用しているというのは、24話のエドの掛け声や、帰路におけるウィンリィの気づきなどでもよーくわかるんだけど、どうやってもエド・アルの師匠か田舎のタマネギばばあみたいにしかならないんだろうな、色気は出ないままなんだろうな、という確信がある。 この作品のコンテの良さについてあまり盛り上がってないのが不思議だ。突き詰められた普遍、オーソドックス。BONESは京アニとともに「保守の前衛」と並び称されていいんじゃないかと思う。
シムーン 第1話~第26話
「お」の付かない耽美だよな。西村純二の愛は。彼の美意識、1話につき1カットはハーモニー処理を入れるだとか(ハーモニー処理はリミテッド・アニメーションの生んだ魔術でありどんどん使うべきだと言って憚らない自分にとっては感無量)、キャラクターは徹底して反復動作を行うこととかにひたすら感激しつつ鑑賞できた。特に第26話のラストシーンなんかは秀逸の一言で、この物語は「戦う美少女」でも「仲良しごっこ」でもない、友情で結ばれた固い絆を、ずっと語ってきたんだということをはっきりと思い出させてくれた。 この作品の性別に関する設定については少し言っておきたくて、「百合」とか「BL」とか「ノマカプ」の壁はいつか瓦解するんじゃないかと自分は思っていて(既にその兆候はいろんな作品でみられるらしい)、純粋にその関係性について、男も女も、誰もが「萌え」られるようになる日は近い、と半ば確信めいたものまであるんだけど、この作品はかなりそれに近い位置にあった。泉に行って性別を決めるまでの猶予期間“のみ”において女性同士の恋愛が存在するわけではなく、性別を決定した後も少女時代のしこりが残っているカップルがよく出てきたからだ。ただ、それがやはり「泉」という言い訳抜きにしては成立しないものだったことは残念なんだけど(グラギエフとアヌビトゥフの二人でさえ、裏設定ではシヴュラ時代に恋人同士だったんだから)、物語進行上「泉」は無くてはならないものだったから、それはまあどうでもいいと思う(なら言うな)。 あとこれも言っておきたいんだけど、最初自分には「大人になる」というキータームも含め、泉で起きていることが処女喪失の過程にしか見えなくて、泉を出た後エリフが号泣していたのも、なにかレイプされた少女のように見えて、たいへんいたたまれなかった。たぶんこれは合ってると思う。少女から女へ、少女から男へ、いずれにせよ喪うものがある。エリフは自分の意思でそれを決められなかったのだから、なおのことだ。 と、まず性別に関する設定に目が行きがちなこの作品だけど、最終的に描かれたものがなんだったかといえば、少女たちの憧憬、ということ尽きる。むしろ、憧憬のみをはっきりと、純粋に描くために、性別の括りをあえて排した、と言っても過言ではないかもしれない。 永遠に「あの日」、純潔を保っていたあのころを繰り返す。たしかに美しい営みだが、同時に究極の退廃であるそれに対し、この作品ではきちんと終わりを設定している。オナシアのように、近い日のドミヌーラ、リモネのように、あるいは遠い未来のユンのように。世界は永遠に終わらないし、無時間的なものはシムーン以外に存在しない。性別を選ばず、大人にならず、純潔を失わなかった少女たちはみな一様に朽ち果てていく。翠玉のリ・マージョンは、永遠の少女となるための道具では決してない。シムーン、あるいは翠玉のリ・マージョンは、神でも、超文明を持った古代の人々でもなんでもいいが(ネヴィリルは自らが祈りを捧げる存在であることそのものに意味を見出した)、とにかくそれを作った者が、お互いどれだけ疲弊しようとも同属殺しをやめない人類に対して与えたせめてもの恩寵であり、生命の種だった。そう、生命の種。性別を選ばず、純潔を保った少女たちが、二人一組で産み落とすことのできる、生命の種。純粋無垢な二人の少女が、本心からともに祈りを捧げる、そのプロセスをもってしか発動しない翠玉のリ・マージョン。そこに、私たちが争いや憎しみから解き放たれるための、重要な示唆が含まれてはいないか。シムーンは戦争の道具などではもちろんない。だが神の乗機でもない。ごく素朴な、友愛の象徴だった。アルクス・プリーマの面々が、翠玉のリ・マージョンに永遠性をみたことは、その光跡がいつの時代も人心を打つ美しさをもっているということに、他ならないのではないだろうか。特定のイデオロギーを伴った反戦の言葉でも、今それ自体が政治的な色を帯び始めている「友愛」という言葉でもない、素朴な隣人愛の感情が、ここにはあった。今、思い出すべきものがあった。 ではなぜ、シムーンに人を殺す力が備わっているのか。銀のリ・マージョンや隼のリ・マージョンは、シムーンが翠玉のリ・マージョンをもって友愛を教唆せしめる「神の乗機」であるのならば、必要がないものではないのか。その疑問だけは、まだ残る。それをもが、シムーンの独善的な使用が破滅を招くということの示唆なのか、はたまたシムーンとは天災のようなもので、雷や豪雨に近いものなのかは、遥として知れない。 要約すると「シムーンは女の子二人でも子種を残せるようにした素晴らしいアニメ」だってことです。
東京マグニチュード8.0 第8話~第10話
強すぎる心的ダメージのために、「悠貴は生きている」と思い込まなくては自分の足で立てなかった未来には、同情せずにはいられないところだけど、その倒錯が解消されるのは、両親が存命であることがわかってからだ、というところに、この作品の持つ救いみたいなところがあって、例えば未来は、悠貴が搬送された病院で、院内にこだまする雑踏を聞きながら悠貴のことを考えていた(ような夢を見ていた)のに対し、夢であるように思われ、実際夢であったが、そこで起きた出来事自体は現実のものであった、ICUの前のベンチで悠貴の脈が無くなる様子を見るシーンでは、ロビーに響き渡る雑踏が一切遮断されている。未来が現実を受け入れられないとき、それほど強いショックを感じるとき、彼女を孤独のうちに閉じ込めないようにしないため、ある種偽善的な、しかし人間的に必要な処置として、彼女を他者との関係性のうちにおくこれらの「雑踏」の用法、ひいては悠貴が生きているという思い込みの解消に至るシークエンスは、他者への夢想、他者が当然持っているであろうと思い込み、実際彼らが持っている(はずの)温かみのようなものに頼らざるを得ない「震災」という特異な状況の中で、これまでもそうしてきたように、辛い心境に置かれた未来が、他者をまた頼っているという、震災という異常の中では通常の出来事であったのではないか、と思う。 呆然自失状態の未来ちゃんをバックで突きたい
うみものがたり 第9話~第10話
結局のところ、この物語の帰結するところとしては、夏音とまりん、二人の辛い者同士の慰撫のしあい、永続する、交換不可能な関係性の構築のようにも予想できるけど、どうなるんだろうか。OPの「二人でささやかな~」という部分には、残酷な(その後の夏音とまりんの関係を考えても、残酷な)誰かと誰かの別れが歌われているように聞こえる。 毎度おなじみ夏音の服装チェックであるが、今回はわりとラフめのハーフパンツにサスペンダーと、上は・・・中心にショッキングピンクのハートマークが入った黒色の奇抜なデザインのTシャツ。黒い海と、その中にあるうりんの、ピンク色をしたさなぎのようなものの換喩にも見えるこのTシャツのデザインは、邪悪な心を理解しつつ、良き心も持つことで、邪悪さに巻かれず、また自由自在に巫女へと変身ができる現在の夏音の状態を端的に表しているとも言える。 なんか今日はいっぱい見た気がするけどそこまででもなかったなあ。本当はあと4本見たかったんだけど。 < 前のページ次のページ >
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勝手にリスペクト(順不同) パフォーマティヴなアニメ批評ブログ。徹底した自分語りの排除と作品主義的言説に、アニメ批評の一つの極北を見る。 反=アニメ批評 作品間あるいは話数間の相関を重視する姿勢を見習いたい。 WebLab.ota 作品受容の環境から作品を語る。作家がいて作品が成立するのではない、作家と読者の協働関係が無ければその作品は存在し得ない。 metamorphosis 以下は相互リンク 作画・演出面における着目点の鋭さにはただただ感心するばかり。シネフィル的な視聴の質の高さがある。 おっきー大将のアニメ雑記 最新のコメント
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